大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和57年(あ)859号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人鹿野琢見、同赤尾直人、同成海和正の上告趣意のうち、違憲をいう点は、刑法一七五条の規定が憲法一三条、二一条に違反するものでないこと、刑法一七五条が所論のような理由により憲法三一条に違反するものでないこと、及び、刑法一七五条が、所論のように他人の見たくない権利を侵害した場合や未成年者に対する配慮を欠いた販売等の行為のみに適用されるとの限定解釈をしなければ違憲となるものでないことは、いずれも当裁判所の判例(昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁)の趣旨に徴して明らかであるから、所論は理由がなく、その余は単なる法令違反の主張であって、適法な上告理由にあたらない。

被告人本人の上告趣意のうち、違憲をいう点は、刑法一七五条が憲法一三条、二一条をはじめとする所論援用の憲法の各法条に違反するものでないことは、前掲各大法廷判決の趣旨に徴して明らかであるから、所論は理由がなく、その余は、単なる法令違反(本件写真がわいせつでないとの所論は、刑法一七五条の解釈適用の誤りをいう単なる法令違反の主張と解すべきである。)、量刑不当の主張であって適法な上告理由にあたらない。

よって、刑訴法四〇八条により、裁判官団藤重光、同中村治朗の各補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官団藤重光の補足意見は、次のとおりである。

多数意見の引用する二つの大法廷判決(最高裁昭和三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁、同昭和四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁。以下、前者を「チャタレー事件判決」、後者を「悪徳の栄え(続)事件判決」という。)には、わたくしはいくつかの基本的な点において疑問をいだいているが、本件はこれを全面的に議論するのを相当とする事案ではない。多数意見の関係で、わたくしが私見を付加しておきたいのは、次の二点である。

一 第一は、右の二つの大法廷判決が憲法二一条の保障する表現の自由についても、公共の福祉によって制限することができるものとしている点である。わたくしは、この点については、悪徳の栄え(続)事件判決における田中二郎裁判官の反対意見とほぼ同様の見解をいだいている者であって、表現の自由は単純に「公共の福祉」によって制限されうるものではなく、表現の自由が憲法上保障されている趣旨からの内在的な制約の見地によってはじめて制限されうるものと考える。チャタレー事件判決は、「憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法一二条、一三条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、(中略)表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によって制限される」ものとしている(前掲刑集一一巻三号一〇一一頁、なお、前掲刑集二三巻一〇号一二四四頁)。もちろん、判例も、たとえば職業選択の自由(憲法二二条一項)などについての「公共の福祉」による制限と表現の自由についての「公共の福祉」による制限とは寛厳を区別して考えてはいるが(最高裁昭和五〇年四月三〇日大法廷判決・民集二九巻四号五七二頁参照)、しかし、結局、憲法一二条、一三条の援用によって表現の自由を制限しうることをみとめているのである。本件の多数意見が右両判決を引用するにあたって、このような見解を前提としているかぎりにおいて、わたくしはすくなくとも抽象論としては異論を有する。

しかし、本件にかぎってみれば、本件写真は、ほとんどすべてがいわゆるハード・コア・ポルノであって、それじたいにおいてなんら思想・科学・芸術等の主張ないし価値をもつものでないことがあきらかである。もともと、単に人の性慾を刺戟するだけの意味しかないような写真は、性質上、むしろ性具の類と異なるところはないのであって、それは広い意味での表現には相違ないが、「表現の自由」をいうばあいの特殊な意義における「表現」には該当しないというべきであろう。そのようなものを販売することが性の自由化の促進という政治的目的に出るばあいであっても、その理は同じである。また、狭義の「表現」にあたるものといえるばあいであっても、本件写真のように、それじたいにおいてなんら思想・科学・芸術等の主張ないし価値をもつものでないことがあきらかなものについては、表現の自由が保障される本旨からその内在的制約を基礎として考えて、結局、制限を受けることはやむをえないものというべきである。したがって、わたくしは、本件に関するかぎり、多数意見と同じ結論に達するのである。

二 第二は、憲法三一条の規定する実体的デュー・プロセスないし罪刑法定主義との関係である。

(1) 刑法一七五条の構成要件、とくに猥褻の概念が明確といえるかどうかは、困難な問題である。判例によれば、「猥褻」とは「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義されている(チャタレー事件判決、前掲刑集一〇〇三頁)。この定義を将来にわたっていつまでもこのまま維持することができるかどうかは別論として、この定義はそれじたいとしてかなり明確なものであるから、刑法一七五条の構成要件が不明確なものであるとはいえないとした判例(最高裁昭和五四年一一月一九日第二小法廷判決・刑集三三巻七号七五四頁)は、一応是認されるべきであろう。ただ、猥褻概念は、規範的構成要件要素の典型的なものであって、記述的構成要件要素とちがって、認定した事実をこの定義にあてはめる際に改めてさらに特別の判断が必要になるのである(チャタレー事件判決における真野裁判官の意見はこの趣旨の指摘を含むものと解される。)。ことに右の定義中にある「善良な性的道義観念」は社会的風潮とともに変化するものであり、定義の形式的は枠組みは固定したものであっても、その意味内容は可変的である。ことに近年におけるその流動化は、顕著なものがあるというべきであろう。したがって、認定事実についての構成要件該当性の判断には、実質的な不確定要素が何重にも加わることになる。これは猥褻文書図画頒布販売罪の本質上、免かれがたいところである。

このようにして、判例によってあたえられている猥褻の定義が形式上一応明確であることをもって充分とすることはできないのであって、当審においても下級審においても、右の定義の具体的適用の基準を定立するために努力を重ねているのである。当審のものとしては、とくに昭和五五年一一月二八日第二小法廷判決(刑集三四巻六号四三三頁-「四畳半襖の下張」事件)および昭和五八年三月八日第三小法廷判決(刑集三七巻二号一五頁、ことに伊藤裁判官の補足意見)を挙げなければならない。下級審のものとしては、たとえば「愛のコリーダ」事件についての第一審および第二審判決はその顕著なものといってよい(東京地裁昭和五四年一〇月一九日判決・判例時報九四五号一五頁・刑事裁判月報一一巻一〇号一二四七頁、東京高裁昭和五七年六月八日判決・判例時報一〇四三号三頁・刑事裁判月報一四巻五・六号三一五頁-確定)。このように、当審および下級審の判例、ことに後者は、かなり具体的で詳細な、したがって捜査機関が事件を摘発するにあたっても拠りどころとなりうるような基準を設定することに努力していることが見受けられる。当審の前記定義は、このような判例による種々の具体的基準の集積によって、その具体的な意味内容が次第に形成されて来ているのである。わたくしは構成要件的定型は判例によって固められて行くべきものであるという見解をもっているのであり、そのばあいの判例とは下級裁判所の判例をも含めた総合的な全体を考えているのである。猥褻の意義についての判例は、なお形成途上にあるが、現段階の判例を前提として考えても、刑法一七五条の規定を構成要件の不明確という理由でただちに憲法三一条に違反するものということはできないとおもう。

(2) ところで、憲法三一条の関係で、さらに遡って検討されなければならないのは、刑法一七五条の罪の処罰根拠ないし保護法益、およびこれに関連して罪刑の均衡の問題である。

ひとつの議論は、猥褻文書図画の頒布販売等によって性犯罪その他の犯罪が誘発されるということは実証されないから、性風俗の維持を同罪の処罰根拠とすることはできないとする。その代表的なものは、アメリカ合衆国の「猥褻および猥褻文書図画(ポーノグラフィー)に関する大統領諮問委員会」の報告書(一九七〇年)である。

しかし、性風俗を維持するということは、なにも強姦のような性犯罪やその他の犯罪の防止を主眼とするものではない。むしろ、端的に、社会環境としての性風俗を清潔に保つことじたいを本来の目的とするものである。社会環境には物心両面にわたって種々のものがあるが、たとえば市街等の美観風致を保持するために広告物等の制限や一定地区内における建築物の制限などが刑罰の制裁のもとにみとめられていることを考えるとき(屋外広告物法、建築基準法)、このような物理的・視覚的な美観にかぎらず、風俗的にいかがわしい商品等が世上に氾濫することのないようにして、いわば精神的社会環境ともいうべきものを保護することが許されないはずはないであろう。もちろん、これについては、表現の自由との関係で重大な問題があることは前記のとおりであるが、それは前段において論じた問題であって、ここではその点をしばらく措いて、性風俗の維持そのものが刑法上の保護法益でありうることを論じているのである。

そこでさらに問題となるのは、法定刑である。けだし、もし本罪の保護法益が単に市街の美観などと並行して考えられる程度のものであるとすれば、その侵害に対応する法定刑も前記の法律にみられるような罰金刑の程度にとどめることが罪刑均衡の要求するところというべきであろう。しかし、猥褻文書図画頒布販売罪の行為類型の中心にあるのは、人の性的な好奇心や慾望の弱点につけこんで営利をはかろうとする商業主義的行為であり、しかも、その中には、少年の情操を害するような態様のものや、いわゆる「見たくないものを見ない権利」を害するような態様のものも含まれているのである。したがって、現行法が本罪の法定刑の中に懲役刑をも加えていることは、あながち理由がないわけではない。

このようにして、処罰根拠および罪刑の均衡の点においても、刑法一七五条の規定をもって、ただちに憲法三一条に違反するものとすることはできないのである。

以上はもっぱら刑法一七五条の合憲性の問題を論じたのであって、立法政策として同条がどうあるべきかの問題が別論であることは、いうまでもない。

裁判官中村治朗の補足意見は、次のとおりである。

私は、刑法一七五条による猥褻の文書、図画等の頒布、販売等の処罰を憲法二一条との関係で正当化しうる一般的な理由としては、結局のところ、社会の道徳的、風俗的、文化的な環境の悪化の防止という点にこれを求めるほかはないと考えるが、憲法の右規定上右の目的のためにどのような文書、図画等をいわゆる猥褻の文書、図画等として処罰することが許されるかは、右の目的達成のための規制の必要性と、当該文書、図画等のもつ表現としての価値(ここにいう表現としての価値とは、一般に当該文書、図画等の内容がどのような政治的、社会的、文化的等の価値を有するかということではなく、それが一定の思想、観念、意識、感情等の表現であるという点においてそれ自体としてどのような価値を有するか-表現者及びその受け手の双方についてみて-という意味でのそれを指す。したがって、その価値の内容や大小も当該表現の種類、その目的、内容、性質及び態様等のいかんによって異なりうる。)及びそれが右の規制によって損われる程度との比較衡量によってこれを決するほかはないと考える。そしてこの場合、多くの人が指摘するように、右の比較衡量における考慮要素の比重や判断の基準自体が社会状況と社会意識の相違及び変化によって影響され、したがって許容限度とされるべきものも相対性と流動性を免れないことに十分留意する必要があると思う。

一般論としては右のように考えるが、本件においては、原審の認定するところによれば、刑法一七五条の「猥褻の図画」にあたるとされた物はいずれも、「陰部、陰毛が透けて見える下着のみを着用した女性がことさらに股間をひろげている姿態などを撮影した」カラー写真であり、しかも被写体(モデル)の姿勢及びカメラアングル等の関係からみて右被写体の陰部付近を特に強調しており、そこに格別の芸術性、思想性は窺われず、全体的にみて主としてこれを見る者の好色的興味に訴えるものというのであり、右の認定は押収にかかる本件写真に徴し正当として肯認することができる(むしろ、「専ら」見る者の好色的興味に訴えるものといってもよいであろう。)。このように、女性の性器そのものを示して見る者に性的刺戟を与え、又はその性的好奇心を満足させるという目的に終始していると認められる写真のようなものは、特段の思想、観念、意識、感情等の表現という要素をほとんど含んでおらず、仮に形式上何かを表現したものにあたるとしても、それが特に憲法二一条にいう表現として保護すべき特段の価値を帯有しているものとはとうてい認められないと思われる。それ故、本件のような写真を刑法一七五条にいう「猥褻の図画」にあたるものとしてその販売等の行為に同条を適用する限りにおいては、右規定がなんら憲法二一条に違反するものでないことは明らかというべきである。

もっとも、刑法一七五条の「猥褻の文書、図画その他の物」にいう「猥褻」の意義については問題がないわけではなく、その定義のいかん、及びそれに該当するかどうかを判断する場合の基準のたて方のいかんによっては、前記のような観点からみて憲法二一条に違反すると認められる場合が含まれる危険性がないとはいえないし、また、これらの文書等の作成者や販売頒布者らからみて当該文書等が右の「猥褻の文書」等にあたるかどうかの判断に苦しむ場合も生じうることが想定されるけれども、これは事柄の性質上ある程度までは避けられないところであって、解釈適用による明確化の努力の積重ねや運用上の良識によって右の欠陥の解消ないし縮減を図ることに期待せざるをえないとともに、それをもって足りるとすべきものであり、かかる欠陥の存在を理由として直ちに右規定を憲法三一条に違反するものとしたり、あるいは特に憲法二一条との関係で表現活動に及ぼすいわゆる萎縮効果を強調して規定自体を文面上違憲無効と解することは、結局において規制そのものを不可能ないし著しく困難なものとしかねず、相当ではないと考える。

以上の理由により、本件上告趣意中違憲をいう所論は、更に立ち入った判断を示すまでもなく、排斥を免れないというべきである。

(裁判長裁判官 中村治朗 裁判官 団藤重光 裁判官 藤崎萬里 裁判官 谷口正孝 裁判官 和田誠一)

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